50歳を手前にして、大きな発見をした。
僕はずっと、今回の人生のテーマ?目標みたいなものを
漠然とだけど、「無償の愛を注げる人間でありたい」と設定してきた。
設定してきたというより、そうだと降臨してきた?!というのかな。
一応、それを究極の理想?究極の成長目標?みたいに。
客観的に、まだまだ点数をつければ、一けた台かもしれないけど
それなりには
人の痛みには寄り添ってきたつもりだし
人の弱さも、寂しさも、怒りの奥にある悲しさも
1万人以上と向き合ってきたことや
自分自身の経験をとおしてとかで、まあ、たぶん、人よりかはなんとなくわってるような自負はあった。
実際、人の話を聞いていると、なぜか相手が泣くことも少なくなかった。
たぶん僕は、人の痛みをバカにしない。
人の弱さを、切り捨てない。
人が言葉にできない寂しさを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。
でも、今日気づいてしまった!!
僕はその慈愛を、ただの一度も自分に向けてこなかった。
人には寛容。否定もしない。
でも、自分には厳しい。
人には「よく頑張ったね」と言える。
でも、自分には「まだ足りない」と言う。
人には「寂しかったよね」と言える。
でも、自分には「甘えるな」と言う。
人には「それは痛かったよね」と言える。
でも、自分には「そんなことで傷つくな」と言う。
僕は49年間、愛の対象から自分だけを除外していたのかもしれない。
傷つきたくなかった。
だから、自分を守るために、自分を先に殴ってきた。
期待して裏切られるくらいなら、最初から期待しない。
甘えて拒絶されるくらいなら、甘えたい気持ちごと潰す。
大事にされたいと思うくらいなら、そんな自分を笑ってごまかす。
それは昔の自分にとって、必要な防衛だったのだと思う。
でも、もうその鎧を少しずつ脱いでもいいのかもしれない。
いきなり裸族にはなれない。
いきなり全部さらけ出せるわけでもない。
でも、ほんの少しずつ、自分の味方になっていく。
昔、指輪に「無償の愛」という言葉を彫った。
その時は、人に向ける愛だと思っていた。
世界に向ける愛だと思っていた。
誰かを許し、誰かを包み、誰かを救う愛だと思っていた。
でも本当は
その相手は自分だったのかもしれない。
成果を出した自分だけじゃない。
強い自分だけじゃない。
役に立つ自分だけじゃない。
人を癒せる自分だけじゃない。
寂しい自分。
嫉妬する自分。
甘えたい自分。
傷つきたくなくて武装する自分。
自分を責めてしまう自分。
その全部に、ようやくこう言ってあげたい。
お前も、愛の対象だよ。
50歳手前で、まさかの大発見。
本当の僕の人生のテーマは、これかもしれない。
いや
もしかすると、多くの人のテーマであり
克服するテーマがそこにある人も多いのではないか。
すべての人に慈愛を。
そして、そこから自分だけを除外しないこと。
この間ひいたタロットで頂いたアドバイスが
「自分を最優先で愛すること」
の本当の意味が
いま、一つにつながった気がする。
無償の愛を注ぐ最優先の相手が
まさかの自分だったとは(笑)
続。