昨日のブログで
「世界をつくっているのは、脳じゃなくて腸かもしれない」
そんな話を書いた。
脳は装置で、
腸は司令塔。
そしてその腸に
最も大きく影響するのが
食。
じゃあ、その話を
もっと社会全体に広げたら
どうなるのか。
腸の状態が変われば
思考が変わる。
思考が変われば
受け取り方が変わる。
受け取り方が変われば
言葉が変わる。
言葉が変われば
行動が変わる。
その人の人生が変わり、
家族が変わり、
社会が変わる。
前回はそこまで書いたが
さらにその先がある。
それは
戦争や争いですら、
突き詰めれば食と無関係ではない
ということ。
もちろん表面的には、
戦争にはいろんな理由がある。
思想、宗教、民族、歴史、領土、資源、
外交、経済、安全保障
理由はいくらでも並ぶ。
でも、
もっと深く掘っていくと
結局はものすごくシンプルなところに
行き着く気がする。
それが
食えない
ということ。
安心して食べ続けられない。
奪われるかもしれない。
足りなくなるかもしれない。
この不安は強い。
人は、腹が減ると余裕を失う。
余裕を失えば、
やさしくいられなくなる。
やさしくいられなくなれば、
奪い合いが始まる。
これは理想論でも精神論でもなく、
かなり現実的な構造の話だと思う。
水を奪い合うのも、
土地を奪い合うのも、
資源を取り合うのも、
結局はその先に
「食」がある。
食糧を安定して確保したい。
生き延びたい。
自分の家族を守りたい。
その欲求は
きれいごとでは止められない。
つまり、
争いのかなり深いところには
食糧問題がある。
どれだけ上で立派な議論をしても、
足元で食が崩れていたら
平和なんて長続きしない。
これは国家レベルでもそうだし、
個人レベルでも同じだと思う。
人は、
心が荒れている時だけでなく、
腸が荒れている時も荒れる。
そして、
そもそも食べられない時には
もっと荒れる。
ということは!
戦争って、
国会で解決するものだと
我々は思ってきたけど
本当は
食卓に答えがあり
食卓が解決するものなのかもしれない。
たかが食卓、されど食卓。
安心して食べられること。
分かち合って食べられること。
この土台があるだけで、
人の心はかなり違う。
食べるものがある。
それを囲む人がいる。
今日も命がつながっていく。
その感覚があるだけで
人はずいぶん落ち着く。
腸も落ち着く。
脳も落ち着く。
言葉も落ち着く。
逆に言えば、
食卓が壊れたところから
争いは始まる。
家庭でもそう。
社会でもそう。
国家でもそう。
そう考えると、
平和を守るために
本当に大切なのは、
立派なスローガンよりも、
安心できる食と、
循環する暮らしなのかもしれない。
そしてさらに言えば、
経済とかお金とか、
世の中にはいろんな“表面”があるけれど、
全部はがしていくと
根底にあるのはやっぱり
食だと思う。
株価がどうとか、
為替がどうとか、
景気がどうとか、
いろんな数字が飛び交うけれど、
どれだけ数字がきれいでも
食べるものがなかったら終わりだ。
どれだけ経済が回っていても
食が崩れたら
社会は不安定になる。
いっけん
お金が世界を動かしているように見えて、
本当は
食のほうがもっと深いところで
世界を動かしているのかも。
だから昔から、
土地を押さえる。
水を押さえる。
種を押さえる。
流通を押さえる。
そういうことが
力になってきた。
なぜなら
全部が
食につながっているから。
だから
「食を支配するものが世界を制する」
みたいな言い方も
あながち間違ってはいない。
何が社会の根っこを支えているか。
その答えが
食なんじゃないかと思う。
食と戦争
遠いようで、
全部つながっている。
食とは
ただ健康になりましょう
という話じゃない。
ただ長生きしましょう
という話でもない。
もっと根っこのところで、
何を食べるかが
どう生きるかを決め、
どう生きるかが
どんな社会をつくるかを決める。
世界を良くするために
政治を変えよう
制度を変えよう
教育を変えよう
経済を変えよう
もちろんそれも大事だ。
でも、
もっと静かで、
もっと地味で、
もっと根本的な場所が
それが、
毎日の食卓。
我々は毎日、
世界を食べている。
そして毎日、
世界をつくっている。
そう考えたら、
食卓って
とんでもなく大きな場所だ。
戦争も、
分断も、
支配も、
不安も、
経済も、
全部の根っこに
食があるのだとしたら、
世界が変わるヒントは
やっぱり食卓にあるのだと思う。